昨今のメディアでは、小室哲哉さんが妻の介護疲れからか起こした看護師との不倫を理由にした引退表明や、事務所独立と同時に小泉今日子さんが豊原功補さんとの不倫関係を公表するなど、何かと不倫が大きく取り上げられることもしばしば。
しかし、この『不倫』というテーマ、日本の歴史上の偉人たちにも当てはまるのをご存知でしょうか?今回は、日本の歴史上の偉人たちの不倫についてスポットを当ててみましょう。
5代将軍徳川綱吉のセレブ不倫
歴史の授業でも名が出てくる『徳川綱吉』は、徳川5代目の将軍です。犬猫などの生物を大切に扱うべく『生類憐みの令』を制定した人物でもあります。
綱吉には鷹司信子という名の正妻がいたのですが、それにもかかわらず綱吉は女色漁りがひどく男色(同性愛)に執心したこともあったそうです。女性は家臣の妻や娘といった存在まで対象になっていたとか。
そんな綱吉の女色漁りで有名な話は2つあります。
ひとつ目は臣下の牧野成貞の妻子との関係。牧野成貞には妻・阿久里と松、安、亀という名の3人の娘がいました。綱吉は妻・阿久里に手をだし、さらに次女の安まで手籠めにしようとするのです。このとき安には婚姻関係があり、成時という婿がいました。成時は綱吉に怒り、抗議のためか割腹自殺をしています。
そしてふたつ目に有名なのが、綱吉の直属の部下柳沢吉保の側室との不倫です。当時、綱吉は柳沢の家に通いつめ、吉保の側室お染との不倫を繰り返していましたが、とうとうお染が妊娠してしまいます。子どもが生まれると、綱吉は柳沢家に松平という姓を与え、貴人が兄弟を指すときに使う『連枝』という敬称を仕様したころから綱吉の子どもでは?とささやかれていました。
歴史上、表向きは急逝とされている綱吉ですが、実は義綱の女色漁りに思い悩んで心を病んでしまった信子が、大奥にある『宇治の間』で綱吉を殺害し、無理心中をしたと大奥では語り継がれていたそうです。
初代総理大臣のプレイボーイ不倫
意外かもしれませんが、日本の初代総理大臣・伊藤博文も不倫をしていた偉人の一人です。妻・梅子は17歳のときに伊藤博文と出会います。
このとき、伊藤博文は高杉晋作の功山挙兵に協力したために、長州藩の俗論派である正規軍から命を狙われていました。伊藤博文をかくまった梅子に魅かれた伊藤博文は、たびたび梅子と会うようになります。
しかし、伊藤博文にはすでにすみ子という妻がおり、梅子とは『不倫』の関係になります。歴史上の記録では伊藤博文はもともと女好きということで有名で、明治天皇から注意を受けたほどだったそうです。
関係を続けていた梅子と伊藤博文ですが、薩長同盟が結ばれる際、最新兵器の購入のために長崎へ、梅子は父親の借金のかたに『いろは楼』という置屋に芸者として身売りされます。この時、梅子は伊藤博文の子を身ごもっており、それを知った伊藤博文は身請けを申し出ます。
『いろは楼』の主人は、条件として伊藤博文の本妻であるすみ子と離婚を要求しました。すると、伊藤博文は結婚当初からそりの合わなかったすみ子と離婚し、梅子を身請けしたのでした。
後妻となった梅子は、伊藤博文との間に二男二女を設け、のちの伊藤博文の女関係には全く口を出さなかったと言います。むしろ芸者たちがやってきたときには、梅子が土産を持たせるなど、朝まで過ごした女に身の回りの世話をするほどだったそうです。
高杉晋作と愛人『おうの』の逃避行
長州藩士の高杉晋作は『松下塾四天王』の一人で、外国に占領されていた土地を死守、幕府に勝利した人物です。
高杉晋作には雅子という妻がいました。雅子は16歳で高杉晋作と結婚、20歳で長男を出産しています。高杉晋作との結婚生活は7年と短く、そのうち一緒に暮らしていたのは一年半で、それ以外の期間、高杉晋作は愛人と過ごしていたのです。
幕末の時代は、現代とは違い、男性が不倫することをあまりうるさく言う風潮はありませんでした。高杉晋作は20歳のとき、下関で奇兵隊を結成しますが、この時後の不倫相手になる“おうの”がいる楼に遊びに行きます。高杉晋作はおうのの美しさに惚れ抜き、『お金を払って』正式な妾にしたのです。
その後、高杉晋作は1865年に功山挙兵に成功しますが、これが原因で蝦夷・俗論の両派から狙われることになり、おうのを連れ四国へ逃れます。そして1866年に高杉晋作は肺結核に襲われ、下関でおうのの側で療養していたのですが、ここに正妻である雅子と長男が姿を現し、おうのと対面することになったのです。
この時の修羅場にはさすがの高杉晋作も困り果て、桂小太郎に手紙を書いたほどでしたが、結局おうのの側を離れ、家族のもとへと戻り、亡くなります。 高杉晋作は亡くなる前におうののことを心配し、遺言を残します。おうのはその遺言通り、高杉晋作の名を汚すことのないよう、仏門に入って梅処尼になり、伊藤博文らの援助で墓を守っていました。
一方の雅子はというと、当時まだ20歳という若さでしたが、高杉晋作の遺言で『自分が死んでも再婚せず、家を守ってほしい』という約束を守り通します。
正妻と愛人というぎくしゃくした関係のおうのと雅子ですが、高杉家が東京に移住した後は手紙のやり取りをし、おうのが東京を訪れた際は、高杉家に宿泊もしています。2人は高杉晋作の遺言にあった『家を守る』という約束を果たすため、わだかまりもなくなっていったのでしょう。
松方正義のデフレ不倫
日本で最初の内閣府、伊藤博文内閣の大蔵大臣をつとめ、内閣総理大臣に就任した松方正義。明治天皇から爵位も与えられている人物ですが、初代内閣総理大臣である伊藤博文と同じように、女好きだったことで知られています。
松方正義は26歳で結婚しました。当時、妻の満佐子は16歳という若さで、2年目に子供が生まれます。満佐子は58歳までに19人の子供を出産しています。
これだけの絶倫夫婦なのに、松方正義はそれでも足りなかったのか、不倫で妾を妊娠させています。しかも、生まれた子どもは妻である満佐子が育てていたそうです。松方正義の不倫は、公認だったのかもしれませんし、妾とも思いのほか仲良くやれていたのかもしれません。
女性関係はだらしない松方正義ですが、その政治的手腕は評価されており明治天皇から絶大な信頼を受けています。 そんな明治天皇がある日松方正義に『子どもは何人いるのか?』と尋ねられます。しかし、あまりに子どもが多く、松方正義本人も正確な人数を把握しておらず、その場は調査して報告すると回答しています。
現代では、不倫=人の道に非ずと責め立てられてしまいますが、実はどんなに立派な人でも、ふとしたきっかけで道ならぬ恋に落ちてしまうものだと、再認識した人も多いのではないでしょうか。世界の歴史上の偉人の不倫にも目を向けると、日本とはまた違った背景で面白いものがあるかもしれませんね。
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ECRII編集部 利根川
大学では心理学を専攻、卒業後、某出版社勤務を経て現職。趣味は人間観察。一見、色香豊かな女っぽい容姿にも関わらず、男性・女性に偏らないフラットな物事の見方や男女問題にまつわる過去の取材、手掛けた記事といった膨大なデータから導き出す的確なアドバイスに、男女を問わず周囲からの恋愛相談が耐えない。将来の夢は『猫たちと平穏に暮らす石田ゆり子』になること。